梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

テレビの中の「笑い」

 テレビに登場する面々は、ほとんどが「一様に」笑っている。カメラ目線での笑顔をどのように描出するか、が番組出演者の必須条件になっている。なるほど昔から「笑う門には福来たる」と言われているように、笑うことは、幸せにつながる早道かもしれない。とりわけ、テレビという媒体は、直接、巷間の家々、しかも居間という空間に入り込む。来訪する人物が、仏頂面をしているよりも、笑顔であるに超したことはない。だがしかし、である。それでは今、私たちは(テレビ時代以前の人々)に比べて「幸せ」になったのであろうか。フランスの劇作家、マルセル・パニョルは、「笑いについて」(岩波新書)の中で以下のように述べていたと思う。(私が読んだのは今から50年近く前のことなので、詳細は覚えていないが・・・)〈笑いには三つの種類がある。その一は、強者が弱者を嘲る笑い、その二は、弱者が強者を皮肉る笑い、その三は、強者・弱者という立場を超えて、共に喜びを分かち合う連帯の笑い、である〉。けだし卓見である、と私は思う。その昔(戦前)、日本の学生は「デカンショ節」という戯れ唄を高唱したという。曰く「デカンショ、デカンショで半年暮らす、あとの半年ャ寝て暮らす、ヨーイヨーイ、デッカンショ」。デカンショとは、哲学者デカルト、カント、ショーペンハウエルの由。要するに、象牙の塔で学究を重ねるおのれの姿を、半ば自慢げに、半ば自嘲げに、揶揄した作物であろう。その替え歌に曰く「教師教師といばるな教師、教師生徒のなれの果て」「親父の頭にオ香コ乗せて、これがホントの親孝行」、さらに曰く「土手の向こうをチンバが通る、頭出したり隠したり」。これらの「笑い」が、マルセル・パニョルの言う、その三の笑い、すなわち「共に喜びを分かち合う連帯の笑い」に該当しないことは、疑う余地がない。つまり、戦前の日本の学生は、弱者を嘲り、強者を皮肉る笑い(喜び)しか、味わうことができなかったのである、と言えば、言い過ぎであろうか。時は流れて、今・現在もまた、テレビの中には「笑い」が溢れている、では、その種類や如何に・・・。すべてがすべてとは言えないにしても、「デカンショ節」と同工異曲の代物が、大半ではないだろうか。今日もまた、(テレビ画面から)、間断なく聞こえてくる「哄笑」に、私は辟易としているのである。(2012.1.1)