梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

ヒトは何のために生きるのか

 まもなく私は70歳、古来より稀とされている年齢を迎えることになる。17歳の時から「死にたい」と思い続けながら、53年が過ぎた。その思いとは裏腹に、性懲りもなく「生き(延び)ている」自分に、ほとほと愛想が尽きる。ヒトは何のために生きるのであろうか。ヒトは「人間」として生きる前に「動物」として生きる。では、動物は何のために生きるのか。動物は「食べる」ために生きる。そして「子孫を残す」ために生きる。「食べる」ことも「子孫を残す」こともできなくなった動物は「死ぬ」。それが自然の摂理というものだが、ヒトだけは、その摂理に反して、無駄な抵抗をしているようだ。「食べる」ことができなくなったヒトは、「経管栄養」「胃瘻」などという姑息な手段によって、延命を図る。「子孫を残す」ことができなくても、堂々と生きている。「高齢化社会」とは、その典型であろう。深沢七郎が描いた「楢山節考」の世界では、ヒトは70歳を超えて「生きる」ことはできない。70歳を迎える前に「お山に行かなければならない」という、(ムラの)掟があるからである。そこに登場する、おりん婆さんと隣家の又やんは同い年、ともに70歳を迎えることになったが、その「生き様」(死に様)は対照的である。おりんは、1年前から着々と準備を進め、渋る倅を叱咤しながらお山に向かう。又やんは必死に抵抗、縛られた縄を食いちぎって逃げようとするが、倅に崖から突き落とされて墜死。どちらが「人間」的な「生き方」(死に方)か。それを判断するのは、私たちの自由だが、ヒトは「人間」として生きる前に「動物」として生きていることを思い知れば、ムラの掟(自然の摂理)を欣然と受け入れるおりんの「生き様」(死に様)の方が、より「人間」的ではないだろうか。
 いずれにせよ、現代の日本は「超高齢社会」、もはや「子孫を残す」ことができなくなた人々(ヒトビト)が25%を超えたとやら、その「異常」を「正常化」するために、一日も早く「私は死ななければならない」ことを肝銘するのだが・・・。
(2014.10.15)