梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

ある自殺者の話

 闇の向こうから、一人の男がふらふらとやって来る。足が地についていないようだ。といっても、それはあたりまえ、ここは冥界なのだから。どうやら、私同様に、「魂魄この世に留まりて」といったケースに見受けられる。私と対面するなり、涙を流しながら「ごめんなさい」と謝った。「どうしましたか」と尋ねると、男は堰を切ったように話し出した。「よく聞いてくださいました。私は今、申し訳ない気持ちでいっぱいです。これまでも、ずいぶん周りの皆さんに迷惑をかけて来ましたが、今回ほどではありませんでした。実を言えば、私は肺がんに冒されていたのです。呼吸ができない苦しみは、たとえようがありません。しょっちゅう、空気の中で溺れているような苦しみなのです。私も男の端くれですから、少々の痛みなら辛抱できるつもりですが、息ができない苦しみには勝てません。誰かに助けてもらえる話しではなく、この苦しみから逃れるためには、死ぬ他はないと決心しました。幸いなことに、私に家族はおりません。誰も悲しませることなく、あの世にいけるなら、と思ってある観光地にやってきました。そこは断崖絶壁、飛び降りれば一瞬で死ねるでしょう。怪しまれることなく、斜面の手すりを超えて、私は眼下を眺めました。海の色は真っ青、白い波頭が岸壁に寄せています。私はお祈りしました。皆さん、これまでお世話になりました。ありがとう、そしてさようなら・・・。その時です。『あっ、おじさん何しているの、そんなところで』という叫び声が聞こえたのは。たしか周囲には誰もいなかったはずなのに、と思いましたが、見つかってしまったのでは仕方ありません。私は答えました。『ここから飛び降りて死のうとしているのです』、『そんな!ちょっと待っててください。今、みんなを呼んで来ますから・・・』私は応じることにしました。自殺は悪いことでしょうか。たしかに、そのことで多大な迷惑をかけることは、たしか。でも、生きていたって同じです。迷惑をかけないで生ていくことなんて出来ないのですから・・・。私の苦しみを誰も引き受けてくれない以上、私には死ぬ権利があるのだ、ということを皆さんに訴えてみたかったのです。たちまち、数十名の人が集まってきました。私は、隙に乗じて助けられることのないよう、手すりからさらに一段さがった窪地に移動しました。キャーという女の人の悲鳴が聞こえました。でも、わかってください。私も懸命なのです。私にとって生きることは死ぬことなのです。『おじさーん、待って。待って。話しましょう』という声、ありがとうと私は心の中でつぶやきました。皆さんの好意は忘れません。でも、私はその好意に応える余裕がないのです。『おじさーん、どうして飛び降りようとしているんですか』私は答えました。『私は癌です。その苦しみに耐えられません。だから死にたいのです』一瞬重苦しい空気が漂いました。『でもねー、おじさん。生きていれば治るかもしれないじゃないか。死んでしまえばお終いだよ』そのとおり、私はすべてをお終いにして、この苦しみから解放されたいのです。心優しい皆さんの説得は延々と5時間も続きました。『肺がんを治したお医者さんを紹介しましょう』『秋田県の玉川温泉で治療すれば治るかも知れない』『周囲の人をこれ以上悲しませてはいけない』『私も癌患者、一緒に闘いましょう』等々・・・。こんな私のために、何の関係もない私のために大切な時間を費やして尽力してくれる人たちがいる、そのことだけでも『生きる』に値する世の中ではないか・・・。その通りです。でも、私は「わがまま」な未熟者でした。『ごめんなさい』という一言を残して飛び降りてしまったのです」
そうでしたか、それで今、どんな気持ちですか、と尋ねた途端、その男の姿は消失していた。ちなみに、娑婆では以下のような新聞記事が流布されていたようである。
「説得5時間、『ごめんなさい』と男性投身自殺」・@niftyニュース・2010年1月20日(水)11時37分配信・読売新聞」」〈19日午後3時5分頃、静岡県西伊豆町安良里の黄金崎公園展望台近くで、海に面した斜面の手すりの外側に60~70歳くらいとみられる男性がしゃがみ込んでいるのを観光客が見つけた。通報で駆けつけた松崎署員や町役場職員に対し、男性は「がんの痛みが続いて耐えられない。死にたい」などと自殺をほのめかしたため、同署員ら約30人がかりで説得。「生きていればいいことがある」などと言葉をかけ続けたが、男性は午後8時10分頃。「ごめんなさい」と言い残して約30メートルのがけ下に身を投げた。漁船が出て、約1時間半後に岩場で倒れていた男性を収容したが、全身を強く打ってすでに死亡していた。男性は身長約1メートル70。中肉で、黒色のナップサックを持っていた。同署で身元を調べている。〉(2010.1.21)