梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・34

【要点】(以下、国造名、所在地のみ記す)
《其一四穂国造》(三河国宝飯郡)《其一五参河国造》(三河国)《其一六遠淡海国造》(遠江国)《其一七久努国造》(遠江
国山名郡久努郷)《其一八珠流河国造》(駿河国)《其一九蘆原国造》(駿河国蘆原郡)《其二0三国国造》(越前国坂井郡三国地方)《其二一角鹿国造》(越前国敦賀郡)《其二二高志国造》(越後国古志郡)《其二三久比岐国造》(越後国頸城郡)《其二四高志深江国造》(越後国頸城郡沼川郷深江村)《其二五加宜・賀我国造》(加賀国加賀郡、石川郡)《其二六能登国造》(能登国能登郡)《其二七大倭国造》(大和国山辺郡大和郷)《其二八葛城国造》(大和国葛上・葛下郡)《其二九凡河内国造》(河内国河内郡)《其三0山代・山背・山城国造》(山城国)《其三一紀伊国造》(紀伊国)《其三二伊賀国造》(伊賀国)《三五但遅間国造》(但馬国)《其三六稲葉国造》(因幡国)《其三七出雲国造》(出雲国)《其三八阿牟国造》(長門国阿武郡阿武郷)《其三九阿岐国造》(安芸国)《其四0長国造》(阿波国那賀郡)《其四一伊余国造(伊予国伊予郡》《其四二小市国造》(伊予国越智郡)《其四三讃岐国造》(讃岐国)《其四四火国造》(肥前・肥後国) 
《結語》
 以上、陸奥より九州に至る多祖的な四四国造を概見した。国造の数は134国である。記紀等から採集したものを加算すれば、約160程度であろう。この節で扱ったものは、総数の四分の一に当たる。これだけの国造が多祖的な傾向を有している。
 だいたい、世襲の職たる国造が、出自を二三にし、それらの祖を並存するのは、一般には母系を根拠とする現象として理解さるべきであって、これらのすべてを仮冒として却け去るごときは、とうてい肯んじ能はない。


【感想】
 著者は陸奥から九州に至る44の国造における「多祖現象」を概観した後で、それは当時の国造家が《母系制》を根拠としていたからだ、と結論付けている。多くの学者が、国造家の多祖現象を《仮冒》による、という説を述べていることに対する反論だ。《仮冒》について、面白いブログ記事があった。以下の通りである。


〈一般的に日本人は祖先を源平藤橘に求める傾向にありますが、これらの家系は藤原四家の末裔か藤原系の天皇家の末裔でもあります。しかし、大部分の家系は仮冒…つまり関係がないのに他人の名前を騙っているようです。そう言えば、私の父方は藤原氏と平氏を称しておりますが、研究している方の論文を読むと、怪しい…仮冒だ…と書いております。
現在私は古代史まで遡って勉強しておりますが、仮冒だと指摘した研究者が正しいだろう事が分かります。私の父方は藤原秀郷を祖先として、藤原北家の末裔を藤原秀郷は称しておりますが、恐らく古代豪族の毛野氏の流れだと考え、調べてみたら、そう考える方は多いようです。毛野氏は古代で云う狗奴国だと考えられていて、武勇に勝れた一族であるようです。毛野古麻呂は藤原不比等と仲が良かったらしく、日本書紀編纂に協力した褒美に、藤原姓を賜ったらしく、恐らくその辺で藤原姓を名乗ったのだろうと思います。また、父方の祖母は曽我氏で、祖先は坂東平氏で鎮守府将軍の平良文を祖としてますが、私は恐らく蘇我氏の流れだろうと考えて調べたら、蘇我氏は意外に東国と深い関係にあり、相模の曽我神社は蘇我氏が建立したと云う伝承があるようです。蘇我氏は古代に於いて、藤原氏と権力闘争をした一族で、結果的には負けてしまいますが、そのまま蘇我氏の末裔を名乗る事は、当時非常に危険だった事から、平氏の末裔を名乗ったのだろうと考えます。
また、蘇我氏は日本海側が地盤だったようで、曽我氏は新潟や津軽地方にかけて分布している事から、蘇我氏である事はほぼ間違いないだろうと考えています。藤原氏は、飛鳥時代に朝鮮半島…百済から渡って来た氏族と考えられています。今の半島人とイコールかどうかは知りませんが、恐らく違うだろうとみています。対して、毛野氏や蘇我氏は土着の勢力だと考えられていますが、いつ頃、何処から来たのかは、歴史研究家は答える事は出来ませんが、日本の縄文時代が紀元前数千年以上続いているそうなので、相当古くから土着しているのだろうと思います。母方の方はメジャーな姓なので、よく分かりませんが、士族であったのは間違いありません。〉(ブログ「浮世は夢幻の如し 我が身の私生活、武道・芸事の稽古、時事放談などつらつらと・・・」より引用)


 なるほど、ここでも《仮冒》説が正しいとされているようである。著者の学説がいかに孤立無援のものであるかがわかった。
(2020.1.22)