梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「庶民列伝」(深沢七郎・新潮社・1970年)

 「庶民列伝」(深沢七郎・新潮社・1970年)の「序章」を読む。冒頭は〈庶民というものは、どんな人たちだかはだいたい見当がつくものだが、どの生活からどのくらいの生活までの人たちを、「庶民だ」とはっきり区別することはなかなかむずかしいことだと思う〉という書き出しである。そこで、筆者は、話し相手の友人・「上高井戸の旦那」(庶民出身・金持ちの御隠居さん)と、その息子(大学出のインテリ・洋酒と読書が趣味)と共に、「庶民の条件」について論議する。その内容を序章にしたのだった。要約すると、以下の通りである。
①「異常神経」(他の者より以上に金を儲けようとか、ぬきでた者になろうとする)の 持ち主ではないこと。(息子の主張)
②庶民と「異常神経」の人数の割合は50対5(つまり10対1)。(筆者・学校なん かで1クラス50人のうち、優秀な生徒は1番から5番ぐらいまでだから)
③庶民の理論は「乱暴な理論」である。
④庶民は、着飾っても「風呂敷包み」を背負ったりする。(不格好な姿を平気でする)
⑤庶民は、「たくさん」のものを「素早く」食べる。(食べ物には贅沢である)
⑥庶民は、強情である。
⑦庶民に、虚栄心はない。
⑧庶民は、馬鹿者(科学的ではない)である。
⑨庶民は、あわてん坊である。
⑩庶民は、「天のちから」を頼む。
⑪庶民は、運命にまかせる。(イチかバチかに賭ける)
⑫庶民は、騙されやすい。
⑬庶民は、だいたい、デタラメである。しかし、生活に関係している。(生活は大事に している)
⑭庶民は貧乏でケチで生活がキタナイと思っていたらとんでもない、金持ちの方はケチ ではないけれども欲が深い。
⑮庶民が怖いものは世間である。
  友人との論議の後、筆者は京都に赴く。ちょうど、七五三の時季で、八坂神社は晴れ着姿の女の子でいっぱいだった。〈(誰が、この支度をしたのだろう)と、私は急に悲しくなってきた。そこにいる女の子の母親の、蓬模様の外出着は、誰も着ていない程むかしの衣装である。女の子の豪華な、絵巻のような晴れ着は、この色あせた衣装の母親がどんな風に支度したのかもしれないのである。そうして、ここに来る女の子の家では、誰もが必死になって支度をしたのだと思った〉そしてまた、〈石段を下りると、横から、さっと、自転車が来て止まった。急ブレーキで止まって、カーキ色の菜っ葉服の男がよろけるように自転車から飛び下りた。その自転車のうしろの荷つけには振袖姿の女の子が乗っているのである。黒い紋付きの振袖の大きい牡丹の花模様は、古い花嫁衣装を子供用に直したのである。菜っ葉服の男は父親だろう、荷つけの女の子をおろして石段の下でキョロキョロあたりを見まわしているのは、これから石段をあがって行くのだが、自転車の置き場所を探しているらしい。が、交通量の劇しいこの石段下には、そんな空地はないのである。あわてているのか、急いでいるのか、さーっと両手で自転車を持ち上げて肩に担いだ。「ミーコ、着物がまにおおてよかったなア」そう言いながら片手で肩の自転車をささえて、片手は女の子の手をとって、突っ込むように雑沓の中へはいり込んで石段をあがっていった。〉という書き終わりであった。
 色あせた衣装の母親、カーキ色の菜っ葉服の父親、彼らが「庶民」であることは間違いないだろう。その姿を見て「急に悲しくなって」くる人は、「庶民」ではない。
私自身も、「急に悲しくなる」ことはある。赤いエナメルのハンドバッグ、氷屋の店先の吊されたガラス玉の暖簾、絹織物の様々な色模様、何の変哲もないビニールの紐等々、「昔の風物・風景」が突然目の前にあらわれると、わけもなく「急に悲しく」なるのである。だから、私もまた「庶民」とは無縁の存在だといえる。
(2008.6.12)