梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

脱テレビ宣言・検証・掘り出し番組《「鶴瓶の家族に乾杯」(NHK)》

 午後8時から、NHKテレビ「鶴瓶の家族に乾杯」という番組を視ていたら、以下のような場面があった。場所は福島県三春町の農家、鶴瓶が訪れた居間の奥に、百歳の女性が寝ている。鶴瓶は、その女性の枕元まで行き「鶴瓶と申します。突然おじゃまします。NHKの番組で、皆さんのお話を聞かせてもらおうとやって来ました。騒々しくなりますが、御承知ください」というような「話しかけ」をした。女性は「了解」の表情で応えた由。その場は「それだけの話」で終わったのだが、後日談。件の女性は、これまで、ベットでの、いわば「寝たきり」の生活であったが、鶴瓶の「話しかけ」以後は、車椅子に乗ってベットから「離れる」ことができるようになったそうな・・・。事実、家族一同、庭に出ての記念写真が「何よりの証し」であった。百歳女性の、そのような「劇的変化」に同居家族はもとより、番組スタッフまで「驚嘆しきり」といった風情であったが、特別「驚くことはない」、その変化は「至極あたりまえのなりゆき」である、と私は思う。なぜ、そのような変化が生じたか。答は簡単である。鶴瓶が、その女性を「家族の最年長者」として尊重、彼女の存在価値・存在理由(存命していること)に、十分な「敬意」を表したからである。女性は思ったに違いない。「生きていてよかった。まだ私だって必要とされている」。その《はりあい》《充実感》が、「もっと頑張らなければいけない、ただベットで《お迎えを待っている》なんてもったいない。生きている世界を拡げよう。家族を励まそう」という《使命感》に高まったのではないだろうか。
 高齢化社会で大切なことはただ一点、社会全体が「高齢者を必要」とすることができるか(厄介者扱いしないか)、高齢者自身が「生きていることの《はりあい》」を感じることができるかどうか、ということであろう。その定理を証明するのには恰好の番組内容であったように、私は思う。(2009.10.26)