梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小さな公園の三本の桜

 家の近くに、猫の額ほどの小さな公園がある。そこには三本の桜が植わっているが、いずれもが満開、その花びらが吹雪のように舞い散りながら地面に積もる。その様は雪景色と見紛うばかりで、筆舌に尽くしがたい。一方、少し離れたマンション群の傍らには大きな公園がある。そこにも倍以上の桜が植わっているが、そこの桜は貧相である。艶やかさの点では遠く及ばない。なぜだろうか。日当たり?、土壌?、そればかりではない、と私は思う。小さな公園には、1年365日(降雨雪日以外は)欠かすことなく、塵・落ち葉を掃き清める篤志家(老爺)がいた。彼は、早朝から独り黙々と「修行僧」のように箒を動かす。人々が出勤し始める頃、小さな公園の地面は、澄み切った水面のように輝き、その一郭だけは、古刹の庭園のような佇まいに変貌する。日常の雑踏とは切り離された「別世界」が現出するのである。しかし、まもなく篤志家の姿は見えなくなった。「ああ、これで、『別世界』も見納めか・・・」と嘆息する間もなく、もう一人の篤志家(老婆)があらわれた。彼女もまた、海老のように曲がった腰を厭うことなく、黙々と塵・落ち葉を「日毎」掃き清める。その奉仕は誰のためでもない。この世に存在する「生きとし生けるもの」の尊い「命」に対して捧げられているのだ。そのような二人の(献身的な)姿を、三本の桜は「ずっと」「黙って」見続けてきた。そして「報恩」を誓ったに相違ない。さればこそ、小さな公園の三本の桜は、今年もまた、精一杯、感謝の気持ちを込めて、(筆舌に尽くしがたい)満開・花吹雪の光景を提供してくれたのではないだろうか。そこには、(私などには計り知れぬ)篤志家男女と桜の「対話」が秘められているような気がして、深い感動をおぼえたのであった。(2014.4.4)